この記事のペルシア湾岸文明とはアラビア半島側の文明のことを指す。反対側のイラン(またはエラム)の文明は前回までの記事で書いた。

湾岸文明の先史から時系列を追うように書いていこう。

  • 農耕文明と非農耕文明
  • ペルシア湾岸
  • ウバイド文化とペルシア湾岸:ウバイド系文化
  • ハフィート文化とディルムン
    • ハフィート文化の担い手
    • ディルムン
    • ハフィート文化は原エラム文明の一部

農耕文明と非農耕文明

人間の歴史は、多くの場合、農耕民の手によって、彼らの世界を中心に書かれてきた。「農耕社会こそ正しい社会だ」という自身に満ちた価値観は、近代の歴史学、歴史教育においても継承されている。多くの時代において、農耕民は数において圧倒的であり、物質文化の豊富さに加え、文字による記録を多数遺してきたが、だからといって、彼らの歴史・文明だけが人類の歴史・文明であるということにはならない。そもそも農耕民だけで作られた文明などあるのだろうか?彼らの歴史と接する非農耕民の歴史・文明をも包括することで、はじめて人類の歴史・文明が偏りなく理解される。このことが理解され始めたのはそれほど昔のことではない。日本では江上波夫の「騎馬民族征服説」(1948年)に代表される歴史観が、非農耕文明の意義を一般人に広める最初の契機となった。他方湾岸では、1950年代以降、同地における近代考古学の研究が本格的に始められてから、もう一つの非農耕文明である海洋民の文明が、明らかになってきた。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015

ペルシア湾岸

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出典:ペルシア湾<wikipedia

ウバイド文化とペルシア湾岸:ウバイド系文化

記事「先史② ウバイド文化」第三節「ウバイド文化の拡大」で少し書いたが、ペルシア湾岸は南メソポタミアの交易相手の一つだった。ウバイド文化が栄えて四方に文化と交易ネットワークが拡大するのはウバイド文化Ⅲ期になってからだが、ペルシア湾岸の遺跡にはウバイド文化Ⅱ期の土器も発見されている。

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出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p25


アラビア湾岸におけるウバイド系遺跡の分布は当時の海岸(湖岸)付近に限定されるので、その担い手は海産物、特に真珠貝の採集集団であったと考えられている。アブー・ハーミスでは、クウェイトのH3遺跡と同様に、大量の真珠貝殻のほか、穿孔用の石錐も多数出土しているので、真珠や真珠母(貝殻内面の平面真珠。漆器の螺鈿に使われるものと同じ)の工房があったものと思われる。現在もそうであるように、利用可能な真珠棚はアラビア湾内に限られていたものとみえ、それを求めた人々が遺したウバイド系遺跡の分布は、オマーン湾やアラビア海には広がらないのである。[中略]

ちなみに現在のところ、ウバイド系文化の痕跡はイラン側では知られていないが、なぜだろうか?それはたぶん湾の両側の海底の地形に原因がある。一般的にだが、アラビア側は極端な遠浅であるのに対して、イラン側はその逆であることが多く、最重要な海産物である真珠の生育に違いがあったのだろう。

出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p30-31

  • アラビア湾=ペルシア湾(「ペルシア湾呼称問題<wikipedia」参照)。
  • 「湖岸」と書いてあるのはアイン・カンナス遺跡のことで、海から離れているこの遺跡の周辺には かつて湖があったという。

湾岸に遺る初期の遺跡は、基本的にウバイド人のものだった。ウバイド人は真珠漁期である5月半ばから9月半ばにかけて湾岸に住みついた。彼らはウバイド文化の最も普通の方法で家を建て、持ってきた土器が足りなければ地元の土でウバイド文化の土器を作った。

これらの遺跡に遺る文化を筆者の後藤氏はウバイド系文化と名づけた。この文化は南メソポタミアでウバイド文化からシュメール文明に代わった後、消滅した。ウバイド系文化は湾岸に影響を残すことは無かった。(p30-31)

ハフィート文化とディルムン

南メソポタミアはウバイド期からウルク期(シュメール文明の初期。前3500-3100年)に代わる。

ウルク期のシュメール人はウバイド人のようにペルシア湾に赴かなかったようだ。つまりこの頃の遺跡が湾岸には無い。

『メソポタミアとインダスのあいだ』ではウルクの人々が海上の往来に不慣れだった可能性を書いている(p48-49)。もっと単純な考えとしてウルク人が真珠に興味を持たなかったか、もしくは別のルートで入手できた、というのはどうだろうか。

ウルク期より後のことになるが、シュメール人はラピスラズリ(青い貴石)を好んで、紅玉髄(カーネリアン、赤い貴石)は不人気だったことを思えば、真珠が漁をするほどの価値を持たなかったと仮定することは無理のないことだと思う(仮定に過ぎないが)。

ジェムデト・ナスル期(前3100-2900年)になると湾岸とメソポタミアの関係が復活した。アラブ首長国連邦(UAE)のオマーンとの国境に位置する都市アル・アインに古代遺跡群があるが、その中の一つ積石塚墳墓群の墓室内からメソポタミア製のジェムデト・ナスル式彩文土器が出土した。

  • この遺跡群の中で最初に見つかったのがハフィート山の遺跡なのでこの時代をハフィート期またはハフィート文化と呼ぶ(p50)。
  • この遺跡群は世界遺産に登録されている(Cultural Sites of Al Ain (Hafit, Hili, Bidaa Bint Saud and Oases Areas)。
  • 「アル・アインの文化的遺跡群<wikipedia」では かなり詳しく書かれている。このブログのように一つの書籍に頼っているのではなく、多くの文献を利用している。

この遺跡群の一つ、ヒーリー8遺跡では、ハフィート期以降の全ての時期で銅製品が存在し、加工も行われていた。ハフィート期の採鉱の場所はまだ特定されていない(p56)が、オマーン半島における銅山の開発事業はハフィート期にすでに始まっていたというのが、多くの研究者の考えである(p107)。

ハフィート文化の銅製品はメソポタミアへ輸出されたが、アル・アインとメソポタミアのあいだのバハレーン(バーレーン)島の古代遺跡からはジェムデト・ナスル期の土器や印章が出土する。

ハフィート文化の担い手

次にハフィート文化の担い手の話に移る。

ハフィート期の人々とは何者だったのだ。彼らは採掘した銅鉱石を加工し、また製品を使用してもいた。それまで土器作りの伝統もなく、農耕も満足に行なった形跡のない、オマーン半島の石器時代人が、突然銅山の開発を始め、製品を輸出するというのは、いくらなんでも無理がある。それならば、ハフィート人はどこから到来した人々ではなかったか。

出典:p57

著者後藤氏の主張によれば、それはイラン東南部のテペ・ヤヒヤの人々だった。言い換えれば、テペ・ヤヒヤがオマーン半島を銅山開発のために植民地にした。

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原エラム文明の物流ネットーワーク

出典:後藤氏/p43

  • 「ハフィート山」「ヒーリー8」と書いてあるのが、アル・アインの遺跡群。
  • 「?(原ディルムン)」となっているところがバハレーン(バーレーン)島。

この主張の根拠となる物はヒーリー8遺跡で出土した黒色彩文土器(Black-on-Red Ware、BOR)だ。この土器はテペ・ヤヒヤから出土する土器と酷似しているのだが、胎土の理化学分析の結果、オマーン半島製だった(p52-53)。テペ・ヤヒヤの人々は銅山開発のためにオマーン半島に植民して、その地の土で故郷と同じ様式の土器を作成した。これはウバイド人が真珠漁のために湾岸に一時季移民して移民先の土で土器を作成したのと同じだ。そして銅山開発が真珠漁と違うところは、真珠漁が一時季に限ることに対して銅山開発と銅製品作成は年中続けられた。文化が根づいたか根付かなかったかの違いはここにある。

これが上のような原エラム文明のネットワークの一部に組み込まれていた(記事「シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明」参照)。

ディルムン

ヒーリー8遺跡ではメソポタミア製土器も出土した。どうしてハフィート期の人々の出自がメソポタミアではないといい切れるのか?それは当時のメソポタミアの人々は河口より南のことはほとんど何も知らなかったである。彼らは湾岸地域を漠然と「ディルムン」と呼んで湾岸地域については銅製品を含む舶来品が来る地域くらいのイメージしか持っていなかった(p55)。楔形文字の前身である古拙ウルク文字の粘土板にはDILMUNと読める語彙が見られるという(p54)。ディルムンは上述したようにメソポタミア人に舶来品の来る地域と思われていたが基本的には良いイメージを持っていたようだ。

後藤氏は以下のような例えを書いている。

「ディルムン」とは、シュメル語の世界では、ちょうど日本語の「漢」や「唐」のように使われていたことがわかる。漢や唐は本来は良き地名(国号)であり、そこからもたらされた漢詩や漢方、唐三彩や唐物のような良きものを指していたが、唐辛子のように、必ずしも中国起原ではないものや、唐紙のように自国製の高級品に冠された例もある。

p55

このような環境の中で、オマーン半島の銅や銅製品も「ディルムン産」というブランド商品としてメソポタミアに運ばれた(p63)。

別の文献の引用をしよう。

私たちが知りうるかぎり、この時期〔初期王朝時代Ⅲ期〕のメソポタミア楔形文字文献にはディルムン〔バーレーン〕のみが言及される。マガン〔オマーン〕やメルッハ〔インダス文明地域〕はあらわれない。じっさい当時、ディルムンは、シュメールの人々が海路で物産を輸入するさいの唯一の中継地であったらしい。人々は船でディルムンまで出向き、そこでさらに遠方から(たとえばメルッハやマガンから)到来していた商人たちと交易交渉をおこなっていたのであろう。なおこの時代やそれ以降に書かれた楔形文字テキストで「ディルムンの船」がしばしば言及されるが、おおくのばあい、この語は「ディルムン人の船」の意味ではなく、ディルムンまでの航海に耐えられるように、南部メソポタミアで建造された船を指している。前24 世紀中葉のラガシュでは、人々はしばしば「ディルムン船」の形状をした青銅容器を神殿に奉納していた。

この時期のラガシュ王朝の創始者ウル・ナンシェは、ディルムンから船で木材をラガシュまで運んだとくりかえし語っている。また王朝の末期に記された行政記録には、「商人(damgar3)」が王室のためにディルムンの銅を輸入したとある。いうまでもなくディルムン(バーレ-ン)は銅の産出地ではない。銅はマガン(オマーン)から、あるいはさらに遠方からディルムンに送られてきていたにちがいない。

出典:前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報2007(pdf)

メソポタミア人が実感できる湾岸地域の南端はバーレーン島であり、それ南のオマーンも、あるいは海を渡って東方のインダスも、「ディルムン」と一緒くたにしていた。

ハフィート文化は原エラム文明の一部

以上のようにハフィート文化はテペ・ヤヒヤからの植民によってできたもので、大きな枠から見れば原エラム文明もしくはその物流ネットワークの一部であり、独自の文化とは言えないようだ。独自の文化が出現するのは、この後の時代、ウンム・ン=ナール文明期のことになる。



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